りそなの会計士は何故死んだのか【再考】

 2014年の大晦日。自宅の炬燵にて。

 

 十年余り前の20034月。大手金融機関の再編が進む中、旧あさひ銀行(現りそな銀行)を担当していた会計士(当時38歳)が自殺した。当時は実名入りの書籍「りそなの会計士はなぜ死んだのか」(山口敦雄著、毎日新聞社)が出版され、他殺説も含めてセンセーショナルな報道がなされた(ちなみに、この本は事件後3ヶ月で出版され、遺族となった御両親は彼の追い込まれた状況をこの本を読んで初めて理解したと証言している)。

 彼は大手監査法人の金融機関監査の第一人者であり、若くして「代表社員」への昇格を打診されるほど優秀であった。彼は当時、会計士資格取得の専門学校であるTAC公認会計士講座の三次試験(現在の修了試験)の「監査実務」の講師として、「会計士の卵」を指導する立場にもあり、私もその講義を聴いた一人である。実務に裏付けされた経験に基づく理路整然とした彼の講義は迫力があり、今でも強く印象に残っている。

 その彼が金融監督庁(現、金融庁)に出向となった際、TACの仕事を降りることとなり、私はその講師の仕事を引き継ぐこととなった。ビール好きで水泳部に所属していた彼とは共通する話題が多く、池袋、赤坂、銀座等、よく飲みに行った。

 上記の書籍では、彼が自殺した理由をこう記述している。

 「過労の身体に、一気に徒労感と虚無感が襲った。」

 彼は合理性を尊び、不合理を嫌った。また責任意識が高く、無責任な行動を嫌った。金融庁や銀行からの圧力等、納得できない事態が続いても挫けない強い人であった。彼は「昇進しなくて良いから監査を続けさせて欲しい」と強く考えていた。

しかし、監査法人の最終判断は彼の考えとは異なっていた。彼は立場上、それに従わざるを得なかった。「週に三日の徹夜」という壮絶な状況下で、気力も体力も限界を超え、受容できない状況を目の当たりにした彼は、突発的に「許されない行動」に出てしまったのかもしれない。

当時の一部マスコミは「厳格な監査判断を求めての抗議のための会計士の自殺」と報道した。しかし、これは明らかに誤りである。やや専門的であるが、問題となった「繰延税金資産の回収可能性の判断」について、監査法人の最終的な判断は「全額回収不能(5号)」であった。これに対して彼は「一定年数の計上容認(4号但書)」とし、監査法人の最終的な判断よりも「甘い」判断を行った。

無論、彼は銀行にとって「都合の良い判断」をしようとしたわけではない。

もとより監査は「厳しい判断」が伴うことがあるが、「厳しいから正しい」わけでははい。

彼が拘ったのは、「厳しいどうか」ではなく、「合理的かどうか」だったはずである。もしかしたら彼は「不合理なほどに厳しい監査判断」に、命懸けで抵抗したのかも知れない。

彼は生前「報酬はリスクに見合ったものでなければならない」と強調し、平常時の報酬には「いざ」となったときの報酬も含まれていると考えていた。平常時に高い報酬を取りつつも、「いざ」となったら無責任に投げ出すようなことが、仮にあったとするならば、彼はきっとそれを許さなかっただろう。

彼は、毎回の講義を「お疲れ様でした」と締めくくった。私も、講義や講演の最後に「お疲れ様でした」と締めくくっている(時として、彼の声色を真似することもある)。

平成2612月、淡路島に眠る彼の墓前に報告した。

平成272月に、彼から教わったことも載せた「財務諸表監査の実務」(中央経済社)を出版する運びとなったためである。現場主義を貫いた彼の遺志を少しでもいいから形にしたいと考えている。

彼が読んで叱責されないように、年末年始は本書の校正作業に没頭するつもりである。Taku